天吹とは?
- 天吹
- 大田良一氏
- 白尾國利氏
天吹とは鹿児島地方に伝わる尺八に似た形をした小さな竹製の縦笛です。長さも管の外径も正確には定まっておらず、長さはおおよそ30cm前後、外径は22ミリ前後です。節が三つあり、孔は下から一節と二節の間に二つ、二節と三節の間に三つ、うち一つは裏面にあります。長さが一定でないので、各管それぞれ音の高さが異なり合奏には適しません。初心者は先輩から譲り受けるものの、奏者自らが竹を採取し製作するのが原則です。伝承曲が7曲残されていますが、すべての曲を演奏しても15分かかりません。
起源は、はっきりしていません。慶長8年(1603)年発刊の日葡辞書(イエズス会宣教師らが日本布教のため編纂し、長崎で刊行された辞書)に「Tenpucu」「テンプク」の項目があること、元禄3年(1690)に書かれた横山日記という文献に天吹を吹いたという記録があることなどから400年あまり前から存在していたと思われます。名称については、文久3年(1863)島津忠義公(第12代薩摩藩主)に呈した「天吹考並歌詞」の中に「天吹ト名ツクルハ、大祓ノ詞ニ天ノ八重雲ヲ吹キ放ツ事ノ如クト云語ヲ取リテ名ツクルモノナリ」とあるものの、詳細は不明です。
江戸時代には鹿児島独特の教育制度「郷中教育」の中で、薩摩琵琶とともに武士階級の子弟によって吹かれていました。明治になると郷中教育を受け継いだ「学舎」の青少年を中心に琵琶・天吹をかじらない者はいないというぐらい盛んでしたが、明治30年ごろ、勉強の妨げになるとして禁止令が出されことをきっかけにして一気に衰微し、昭和20年代後半には、伝承曲を受け継ぐ者は大田良一氏(号忠正)ただ一人となってしまいました。
東京に住んでいた大田氏が、昭和28年、鹿児島に帰って来られたのをきっかけに、同30年「天吹柴笛振興会」が結成され、天吹・柴笛を後世に伝える復興運動が始まりました。この振興会に参加したのが白尾國利氏です。氏は人一倍熱心に取り組み、ただ一人天吹を習得し、昭和34年大田氏が亡くなると、今度は氏が唯一の伝承者となります。氏は吹奏を伝承するだけではなく、伝承曲を楽譜にし、製作方法を確定しました。昭和56年、何とか天吹を残したいという白尾氏の意向を受け、薩摩琵琶奏者が中心となって「天吹同好会」が発足し、天吹の保存継承に努めました。その同好会の活動が現在まで継続し、今期(令和2年)39周年となります。昭和61年には、天吹研究の集大成として『天吹』(天吹同好会編)が刊行されました。さらに平成30年には補遺を加え復刻本が刊行されました。
「天吹」は、平成2年鹿児島県の無形文化財に指定されています。
天吹の細く高く澄み切った音色には鹿児島の歴史と精神が宿っているかのようです。大田氏は琵琶の名手でもあり、次のような言葉を残していますが、天吹の精神に通じると思います。
「幽玄なる琵琶道の神髄をつかまんとするには撥(ばち)を鋤(すき)に替え、倦まず撓(たわ)まず飾らず傲らず営々として深く掘り下げてこそ初めてそこに滾々(こんこん)と湧く清水に達する。」
(「薩摩琵琶」越山正三著193頁)