「天吹」の記録
記録は信頼できるもの、疑問点があるものを含めて十数点あります。時代的にほぼ古い順に幾つか紹介します。
島津日新公(忠良) 天吹奨励のこと。
「御家兵法純粋」安永9年(1780)久保之英著に掲載
島津日新公(明応元年~永禄11年・1492~1568)は伊作島津家の当主。戦国時代を勝ち抜き、長男の貴久が本家島津家の15代当主となります。その日新公が琵琶天吹を奨励したという記録があります。「安永9年(1780)久保之英」著「御家兵法純粋」の中の記述です。
- 「御家兵法純粋」 鹿児島県立図書館蔵
- 「御家兵法純粋」本文82頁
内容としては、「日新公が、士の勇気を養うために侍踊りを作り踊らせたが、これは集団の営みであるので、一人居て所在ない時に心を楽しませ、気を伸びやかなものにするために天吹を吹かせなさった」とあります。これが事実だとすると天吹は戦国時代から吹かれていたことになりますが、日新公の時代から250年下った安永年間に記された書物ですから、そのまますべて事実として認めるのは難しいでしょう。戦国時代から江戸初期にかけて天吹が吹かれていたという記録は他にいくつかありますが、その中で尤も資料として信頼できるものは次の「日葡辞書」の記述です。
「日葡辞書」慶長8年(1603) 長崎で刊行。
日葡辞書とは慶長8年(1603)イエズス会宣教師らが日本布教のため編纂し、長崎で刊行した辞書です。この辞書に「Tenpucu」「テンプク」の項目があります。Tenpucu.テンプク(天吹)門口に立って施しを乞いながら,所々方々を歩き回る人が吹き鳴らす笛.「Tenpucuuo fuqu.(天吹を吹く)この笛を吹き鳴らす。」 邦訳日葡辞書より
「門口に立って施しを乞いながら」とあるのは、天吹は武士が吹いたのですから少々首をかしげる点ですが、この記述は江戸時代初期「テンプク」と呼ばれる「笛」があったことの証拠になります。
次は、天吹を語る時に必ず紹介されるエピソードです。
北原掃部助、関ケ原(慶長5年・1600)で天吹を吹き命が助かる
新薩藩叢書第三巻「称名墓誌」文化12年(1815)本田親孚(ほんだちかさね)著に掲載
称名墓誌という、「名士の墓を探討して伊呂波順に分別して各其略伝を記述したる書」(凡例)の「備考」「き」の部「北原掃部助」の項に、東軍に生け捕りにされた島津義弘配下、北原掃部助が、首を刎ねられようとした時に、請うて天吹を吹いたところ、徳川方がその音色に感動して命を助けたという話で、北原家ではその天吹を助命器と名付け子孫に伝えたとあります。
この助命器が現存していれば、天吹が戦国時代から存在していたことを実在の資料によって確定できるわけですが、惜しいことに明治時代初期、北原家に嫁いできたばかりのお嫁さんが掃除のとき焼いてしまったのだそうです。そのような大切なものがぞんざいに扱われたことは信じがたい気もしますが、白尾氏が東京在住の縁者を訪問して確かめているので事実のようです。ちなみに北原家というのは、渋谷の初代忠犬ハチ公(この初代は戦時中軍に供出)や鹿児島の西郷隆盛像を制作した安藤照氏の母堂サチ夫人の実家です。
ただここに問題があります。江戸時代初期には「一節切(ひとよぎり)」という竹の縦笛があって相当流行しており、鹿児島にも、17代当主島津義弘の愛用した一節切、またその息子の島津家久自作の一節切も残っています。そして鹿児島では、すべての竹笛を「天吹」と呼んでいたようなのです。とすると、関ケ原の「天吹・助命器」も実際は「一節切」であったかも知れないという疑いが生じてくるのです。「助命器」が失われたのは返す返すも残念なことです。
庄内の乱(慶長4年・1599)で戦死した吉田大蔵清家と平田三五郎宗次が天吹を吹奏する
「賤のおだまき」明治17年刊 著者不明
慶長4年(1599)島津氏と家臣の伊集院氏との間に「庄内の乱」と呼ばれる戦いが起こります。この戦いで島津の家臣吉田大蔵と平田三五郎が戦死します。二人は義兄弟の契りを結んでいましたが、吉田大蔵が討ち死にすると、平田三五郎はそれに殉じたのです。それを描いた「賤のおだまき」という書物にこの二人が天吹の名手だったことが述べてあり、天吹を吹く挿絵まで載っています。しかし明治時代に刊行された作者不明の書物ですから、このことを以て慶長年間に天吹が吹かれたするのは難しいと思います。ただこの話は薩摩の若者に深い感動を与えて後々まで語り伝えられ吉田大蔵と平田三五郎が天吹と薩摩琵琶を奏でる様子が画題となり掛け軸などが多く残されています。
注「賤の麻環」文化9年(1812)白尾國柱著に琵琶と天吹を吹く図がありますが、これと「賤のおだまき」とは別です。
時代は飛びますが、安永年間になると疑問の余地のない記録が出てきます。
「南遊紀行」亀井南冥著 安永4年(1775)
亀井南冥(1743~1814)筑前姪浜生まれ(現在の福岡市)は、儒学者で医師。「南遊紀行」は亀井南冥が安永4年(1775)弟子を伴い2か月薩摩に遊んだことを漢文で記した紀行文です。その中の10月2日の項 出水の面高林泰の家に一泊したその翌朝、天吹を聞いたと記してあります。
若い者が十数人軒下で騒いでいるので、南冥が怪しんで尋ねると、林泰がいわゆる兵子二才が天吹と名付けられている楽器を吹いているのですと答えたという内容で、この紀行文によって安永年間には間違いなく天吹が存在していたということが分かります。「器は名づけて天吹と曰ふ」と説明していることから、南冥が「天吹」という笛を知らないだろう(鹿児島特有の楽器である)ということを林泰が意識していたこともうかがわれます。天吹と称しながら一節切ではなかったかという疑いもこのころには必要ありません。実は18世紀になると一節切は急速に衰微して一般には吹かれなくなってしまうのです。
安永年間に天吹が吹かれていたことは「天吹」そのものが資料として現存しています。天吹資料をご覧ください。
明治時代になると新聞記事として残っている資料があります。
大正天皇が皇太子時代鹿児島を訪問された際、天吹を聞かれたという明治40年の記事です。
大正天皇(皇太子時代)御前演奏
明治40年10月29日鹿児島新聞
以下新聞記事
昨夜の磯邸「東宮殿下には昨日午后七時より御旅館御座所に於いて天吹・芝笛・薩摩琵琶等をお聴き遊ばされたるが天吹・芝笛は野村氏吹奏し、薩摩琵琶は児玉、貴島、肝付の三氏(児玉氏は「吉野落二段目」肝付氏の琵琶にて貴島氏の歌「武徳殿」)何れも御次の間に於いて謹んで弾奏したるに殿下には頗る御満足あらせられたるやに漏れ承りぬ。尚ほ當夜は供奉員の主なる人々及び樺山伯、島津珍彦、奈良原各男、伊瀬知、大久保、吉田各中将其他陸海軍将官知事らへ陪聴仰せ付けられたりと云ふ」
この天吹を吹いた野村氏とは野村直助氏のことで、鹿児島市荒田の人。大田氏の天吹の師に当たる人です。直助氏の父は「七助」といい親子ともども「天吹」の名人であり、藩政時代からの天吹の系譜は、野村氏の父「七助」氏から「直助氏」へ「直助氏」から「大田氏」へ、そして「白尾氏」へと続くわけです。その白尾氏の呼び掛けで天吹同好会が設立されたということになります。
明治40年、東宮殿下御前演奏がなされたということは、当時天吹が格式のあるものとして認められていたということになりますが、その天吹がなぜ衰微してしまったのか。その事情が今村貞治氏が自分の半生を振り返って記した書「愚者物語」に記してあります。今村貞治氏(明治21年~昭和41年・1888~1966)は大田氏の小学校時代から二中(現在の甲南高校)を通じての同級生で親友です。少々長いですが引用します。
「愚者物語」118頁
私たちの中学時代(明治末期)、学舎に通っている生徒たちは、琵琶、天吹を少しづつでもかじっていないもののないぐらいにはやったもので、天吹は下荒田町に野村直一と言う名人がいた。この人が縁先に出て、興に乗じ天吹を吹いていたら、人魂が遥か向こうから、如何にもその妙音に引きつけられたように、まっしぐらに飛んで来て、庭先ですうっと消えたそうだ。この話は当時有名なものであった。新屋敷町方面には、また少々流儀を異にした天吹が伝えられて、大田良一君が幼少の頃から名を現わしていた。
※野村直一は直助氏のことか?
※「学舎」西南戦争後、藩政時代の「郷中教育」を受け継ぐ形で「徳性の涵養・修学・心身の鍛錬」等を目的として地域ごとに設立された青少年の自治組織。
略
学舎の大御所S氏は、七高の中途退学で、ずっと市に留まっていた先輩だが、この人が、「この頃の学舎生の、学校に於ける学業成績の振るわぬのは、琵琶、天吹に凝り、夜更けまで喇叭を吹いて、人家に迷惑をかけることがひどい、殊に喇叭は心臓に尤も悪い(実はかえって良いのだそうだが)というので、右の三つを、各学舎に対し禁止令が出た。 そしてS氏の同じ学舎の先輩である、前記の野村師範に「これから、若い者に天吹の指導は止めて下さいと強く要請したそうだ。野村先生も、一二語なんとか弁論したそうだけれどもS氏が頑として聞き入れぬので、怒ってその面前で、嘗て人魂を吹き寄せたという、最愛の天吹を真二つに叩き割って、庭に投げ捨てたそうだ。若者どもを制するのは兎も角、この老先生をかくまで苦しめたということは、当時血気の青年たちを扼腕せしめたものだ。惜しいかなこの野村流の名調は、名器と共に永遠に亡び去り、遂に跡を継ぐ人物も出でずに終わった。独り新屋敷調のみが、大田君に依って継続したのだった。天吹の実物そのものも、下荒田と新屋敷とでは、歌口の作りが違っていた。 琵琶も同時に止まってしまった。如何にあの頃の時代とはいえ、学舎制度の厳しさの下になかなか威力のある指令であった。
衰退したのは、学舎の大御所の禁止令が原因だったということが分かります。文中に「野村流の名調は、名器と共に永遠に亡び去り、」とありますが、白尾氏が大田氏から「実は明治39年当時、自分らが真似ていた天吹はゲッ(変形)ていた。野村氏から習った一人の演奏を聞き、これでなくちゃいかぬとて、野村氏について習った」。(本「天吹」46頁)と直接聞いているので、こちらが事実でしょう。正統な「天吹」が奇跡的に伝承されたことになります。このあと天吹禁止事件となるわけです。この禁止を受けて、大田氏の世代からあと大田氏以外に正統な天吹を受け継ぐ人はいなくなります。大田氏は旧制中学卒業後神戸で就職され長く鹿児島不在となり、その間鹿児島で天吹を吹く人の氏名は何名か挙げられますが、大田氏に次ぐ若い人はいません。
次に大田氏が鹿児島に帰って来られた時の記事を紹介します。
薩摩琵琶の至宝太田忠正氏(本名大田良一)
〇薩摩琵琶の至宝と言われている太田忠正氏(六十五)がこの三月東京から郷里鹿児島に帰郷、同市南林寺町大田歯科医院に寄宿しているが、このほど同氏は市広報係の求めに応じて珍しい“天吹”をテープレコーダーに吹き込んだ。同氏の薩摩琵琶“城山”とともに、これは永久に保存されることになっているが、“天吹”は鹿児島の古老もすっかり忘れていたという笛(尺八を小さくしたようなもの)で、今ではこれを完全に吹きこなせる人は一人もなく、太田氏がただ一人、後継者は全くあとを断っている。同氏は鹿児島市新屋敷の生まれで鹿児島には学舎が十八あった。“十八学舎”と言われていたが、その各学舎には二三人くらいの名手がいた。太田氏もその一人で譜は下荒田に住んでいた野村某に習ったという。
略
太田氏は『鹿児島の人もこれを全く忘れ切っているようです。できれば誰かに伝授しておきたい』とあとの絶えることを心さびしく思っている。(写真は天吹を吹く太田氏)
昭和28年にはやはり『鹿児島の人もこれを全く忘れ切っている』という状況だったということが、改めて分かります。そしてこののままでは天吹が滅亡してしまうという危機感から昭和30年「天吹柴笛振興会」が発足することになります。
さて、地元鹿児島の視点で「天吹」を見てきたわけですが、中央から或いは学問的に「天吹」を取り挙げたのは、田邊尚雄氏(1883~1984)です。氏は音楽学者で、多数の著書があり、東洋音楽学会を設立するなど多くの業績を挙げた文化功労者です。氏が昭和22年出版した「笛」その芸術と科学という著書154頁には、以下のように記してあります。
薩摩の天吹について
今から34余年前に、薩摩琵琶の大家であった西幸吉翁所蔵の天吹を借覧し、これを測定調査したことがあった。
略
薩摩に天吹と名付ける特有の尺八が存在するが、今日では極めて稀な存在となってしまった。此の楽器は我が虚無僧尺八の歴史を研究する上に頗る重要なる資料であると私は考えている。即ち近頃、尺八家中塚竹禅氏が紀州興国寺の資料や古記録などを調査して、虚無僧尺八の起源に関する従来の伝説を打破し今日の尺八の形は江戸初期に起こったもので、即ち普化宗なる特殊宗派と虚無僧なる特殊階級との関係を精細に調査考究されたもので、頗る肯綮(こうけい)にあたれるものである。なお今後の研究には、今日の尺八の形態を変化を明らかにするの必要があり、一節切から直接に虚無僧尺八が出たとは思われず、さりとて上世の正倉院にある雅楽尺八から近代尺八が生じたと見ることは大なる誤りである。この正倉院の尺八と近代尺八との間には深い溝が存在していて、到底これを直系と考えることはできない。私は一節切をもって近代尺八の祖と見做すところの中塚竹禅氏の意見に、大体の賛意を表するものであるが、これをなお一層明瞭にする必要があると思う。それには、室町時代末から安土桃山時代に於けるこの種の楽器の考古学的研究が必要になって来る。この考古学的資料の中の極めて重要な役割を演ずるものは、この薩摩の天吹であると思う。「笛」その芸術と科学より
田辺尚雄氏はこのように述べて、虚無僧尺八の歴史を解明する上での「天吹」の重要性を指摘しました。白尾國利氏は当時尺八都山流に入門中だったことからこの「笛」を読んでおり、ちょうど天吹に関心を寄せていた時「天吹柴笛振興会」が発足する報を聞きつけて、昭和30年1月22日照国神社参集所で発会した「天吹柴笛振興会」に参加します。会は盛会裏に終わりますが、結局天吹を習いに行ったのは白尾氏一人だったそうです。
白尾氏は大田氏から伝承曲を受け継ぎ、昭和34年に大田氏が逝去されたあとも研究を続け、製管法を確立し、曲を楽譜に表し、昭和56年には氏の呼びかけで「天吹同好会」が設立され、現在その同好会が「天吹製作」と「伝承曲7曲」の保存継承に当たっています。最後に白尾氏の発表した文献と天吹同好会編纂の「天吹」を紹介します。